仲根石工造園は、およそ三百年前からここ小牧で継承されている石工技術を使って
お客様に造園・外構・エクステリアをご提供しています。
手間暇かかり、他社が行っていないこの造園方法を「なぜ使うのか」、
その想いを歴史に絡めて仲根石工造園の仲根がお話させていただきます。
私たちの住まう小牧市は、尾張の織田家と美濃の斉藤家が血で血を洗う激戦の地であり、後に天下を半ば統一した織田信長でさえも、屈強の兵と広大な領地を擁する美濃斉藤氏の前に連戦連敗だったと伝えられています。
そんな父の代より苦渋を舐め続けてきた隣国の脅威を防ぎ、美濃を手に入れるには、清須ではなく最前線により近い小牧山に本格的な城閣を築く必要がありました。
守りの堅さも、威容も大きく差がある事から、信長は、自らが始めて手掛ける居城を稲葉山城に見劣りしない、堅い守りと自らの権威を誇示する事の出来る今までに無い前代未聞の城造りに着手することを計画するのです!
そうです、これまでに無かった信長独創の石垣城郭の築城です。
当時、織田家の居城であった清洲城をはじめ、陣を敷く屋敷や寺院も、敵からの攻撃に対する防御力はそれ程優れたものではありませんでした。
せいぜい丘の上に砦を築き周囲に堀を掘った程度の平城が多かったと言われています。
広大な平野の中にぽつんと佇む岩盤で出来た小牧山。眼前には当初築城を考えていた本宮山・信貴山・尾張白山が連なる尾張三山が広がり、五枚岩で有名な岩崎山もある。
小牧山をはじめ、眼前の尾張三山は丸ごと石の塊。
信長自ら考案した夢の築城計画を型にする事が、この膨大な石材を得る事でいよいよ可能になったのです。
これまでの織田家の勢力下であった清須を中心とする尾張平野は、大きな山や大型河川、渓谷が乏しく、城の石垣を構成する巨石を多く産出することが出来ません。また当然それらを取り扱う石工職人もいなかった筈です。
後世有名になった「安土城」築城の際に、比叡山山麓の石工集団「穴太衆」(あのうしゅう)が安土城の石積みで名を上げた様に、卓越した技術を持つ集団が無ければ、石垣を持つ本格的な築城は不可能なのです。
しかし小牧一円、現在の尾北と呼ばれる地域には、偶然にも長らく石積みをという特殊な技術を伝承する石工職人が多く存在していたのです!
そのため庭先を掘れば大小様々な川石がゴロゴロ出てくる様な土地柄だったのです。
無限にあるそれらの石を使って、自らの住居や田畑・寺社仏閣を、木曽川の脅威から守る為に先人達が試行錯誤の上編み出したのが信長が築城につかい、そして仲根石工造園が継承する「石工技術」なのです。
正に生活の知恵であり、生き延びる手段として芸術の域にまで発達していました。
土木工学が進歩した現代においても理に適った土木技術として、今なお活用されている程の高度な技術は、当時の城づくりにおいて計り知れない大きな力となった事でしょう。
その理由として、信長が小牧山周辺地域を手に入れる以前、この地域は敵方陣地との最前線にあったことで当時の信長配下の丹羽長秀や佐久間盛信らが幾度となく調略を仕掛け、対話工作を繰り返していたとの記述が「信長公記」にもあることから信長は、この地域の有力者の存在、そして腕の立つ職人集団の存在を小牧を手に入れる以前から掌握し、小牧山城築城の際に大いに利用しただろう事は疑い様がありません。
信長の妻「濃姫」の父であり、いずれは信長に美濃を譲ると思われていた斉藤道三が、子の義龍に殺され以来、強大な大国美濃は信長にとって大きな脅威だった筈です。
そんな食うか食われるかの戦国の世において1寸の隙、1日の無駄が死を招く緊張感の中わざわざ危険極まりない無計画な築城には踏出しません。
現場の目の前に石で出来た山があれば、当然そこの石を切り出し運び込むでしょう。
時間と金をかけて重い石をわざわざ遠方から持ってきません。
地元に一人や二人ではない大規模な技術屋集団がいれば、どんな手を使ってでも利用するでしょう。
巨石を産出しない尾張平野で、存在しないかも知れない石工職人を探しには行きません。
すぐそばに地元の職人集団がいるのですから。
信長最後の城である安土城は全山総石垣と言われる程、石垣を多用し後世の城造りに大きな影響を残したと言われていますが、近年の小牧山の発掘調査の結果から、小牧城の石垣こそが信長の城造りの原点でありここでの成功が無ければ安土でも石垣城郭は採用されなかったに違いありません。
そう考えると小牧城の石垣を造り上げた名も無き職人たちが後世に残した爪痕は大きく、織田信長の天下統一に大きく貢献したと言っても言い過ぎではありません。
信長が愛した城郭石垣、そのルーツが小牧城にあり、その技術の源流が今でもこの地に確かに根付いていることを改めて誇りに思うと共に、数百年の歴史を経てその技術を絶えることなく伝承してきた先人達に改めて敬意を送ります。
私達は小牧城のお膝元、小牧市で創業より3代60余年、そして石工職人の末裔として生まれた創業者の生誕・修行の地でもある大口町を源流として、300年を楽に越える石工技術の継承を現在に至るまで脈々と行なってきました。
近年の小牧山の発掘調査の中で、歴史的大発見である石垣を目の当たりにした時、地元に伝わる伝統石積みとの類似点が余りにも多い事に驚き、永らく小牧市で石工に携わってきた職人としての誇りと責任、そして何か先人からのお導きでもあるかのような不思議なご縁を頂く中で、これまで独自の研究調査を続けて参りました。
この度、信長の愛した小牧山石垣のルーツを探る際、残された僅かな文献をひも解く歴史学者の見識を大いに参考にさせて頂いた上で、そこに伝統技術を受け継いだ石工職人としての現場目線を加味することで、今までに無い新しい見解を見出すに至りました。
確固たる証拠文献はありません。
しかし私共が先祖から伝え聞く歴史的伝聞と、受け継いだ技術の共通性、そしてなにより資材の安定供給と石工職人の存在という建築に必要な絶対要素が全て揃っている事を確かな論拠とし、信長が初めて作った日本最古の城郭石垣は、地元の石材、地元の石工職人によって造り上げられたMADE IN KOMAKIであったと結論づけております。
この検証が後の世の定説になっていると確信しておりますが、仮にこの検証が新たな発見によって覆されたとしても、この地に残る信長の愛した石工技術への関心が更に高まり、三英傑がしのぎを削った小牧山の更なる魅力向上に繋がれば幸いです。
1級造園施工管理技士
文化財石垣保存技術協議会 技術会員
小牧山石垣研究家 仲根 弘志郎